この記事は
・パリコレなどで見れる奇抜なファッションがなぜああいったデザインなのか知りたい人
・ファッションをより深く理解したい人
には参考になると思います。
こんにちは
このブログを主に見てくれるような人は若い人が多いのかな。
そんな人たちがファッションを心底から楽しめるきっかけになる記事を書くつもりです。
まあタイトル通り奇抜なファッションを語るわけですが、それだけでなく服のデザインの奥に隠された作り手の意図、いわば哲学を簡単に解説してみようかと思います。
パリコレで見かける服は商品ではなく作品
大学生なんて毎日が私服、
「どんな服を着ればいいんやろー」
なんて人も多いと思います
実際ネットにはファッションアドバイスをするような記事や掲示板が大量に存在しています。
量産系はだめだの、合コンでは黒スキニーとチェスターコートが間違いないだのなんの。
まあ最低限見た目に気を遣えてるなら、自分が好きな服着ればいいかとは思いますが。
その中でよくパリやミラノのコレクションの写真とともに、それらのコーデを批判した言葉を見かけることがあります。
例えばこのリンク先にあるコーデ
https://matome.naver.jp/odai/2141136117683306401
モードファッションというやつでしょうか。(モードの定義は非常に曖昧かつたくさんありますがここでは省略)
いや、いいんですよ
どう感じようがそこは自由なので。
でもどうせならその理解不能な服たちを解釈できるようになったらとても楽しくなりそうじゃないですか。
ましてやそれらを解釈しながら、自分の服選びの基準の一つなんかにできたら楽しいですよ、きっと。
まず大前提としてこれらの服は必ずしも着るために作られているわけではありません。
僕はそんな奇抜な服も何気ない顔して着ておりますが(笑)
あくまで、ショーという様々なメディアに注目される舞台でデザイナーが自らの服の価値観、つまりファッション哲学を示す場。
控えめな着こなしではそれが伝わりにくいため少し過剰な表現が多いのです。
奇抜にみえるブランドにも、きちんと日常着として着れる服はあります。
まあそれでもきれい目ファッション?が好きな人からすればなんじゃこりゃなアイテムがほとんどですが。
商品ではなく作品というとニュアンスが伝わるかもしれません。
どうしてもデザイナーの哲学を服という製作物で表現しようとしたら、ああいうデザインになるんです。
美術館で絵画を観たことがありますか。
基本的に絵画の横には解説文が載ってると思います。
絵という作品の奥には様々なメッセージや作者の思いがあるんです。
モードファッションもこれと同じ
服の奥に様々な思いや、哲学があるんです。
画家は自らの思いを絵で、哲学者は言葉で表し、ファッションデザイナーは服で表してると考えるとわかりやすいかな。
ただ、文字や絵と違い、洋服って表現の自由度が少ないんですよ。
ズボンをイメージしてと言うとだいたいみんな同じようなものを考えますよね。
文字や絵は無限に表現のパターンがあります。
ブロガーの文章が人それぞれ異なるように。
マンガ家のつくるキャラがそれぞれ個性があるように。
文字や絵は、表現するうえで周りとの違いを生みやすいんです。
服はT シャツ、ジャケット、パンツというようにカテゴリーの中でしかデザインできないんですね。
Tシャツの上から羽織るパンツ、下着としてのジャケットなど不可能に近いのです。
服に限らずカテゴリー分けというものはとても人間を不自由にしている側面がありますが、これを語りだすと大変なので、興味がある人は言語学という分野の本を読んでみてください。
まあこれがモードファッションの一つの側面です。
モードファッションでよく使われるテーマ・思想
じゃあその服に込められた哲学ってどんなものなのでしょう。
んまぶっちゃけたくさんありすぎて、全部は語れませんが多くのデザイナーが昔から考えてきたものを1つ挙げてみます。
結構哲学的なことを書くので、途中ファッションから離れてるように感じるかもしれえませんが、面白いですよ。
モードファッションでよく使われるテーマに
人や社会がもつ属性・型をくずす
というのがあります。
言葉にすると少し難しいけど、説明してみます。
例として高校生まで着ていた制服というものを出してみます。
この記事を見ている人の中で、きちんと制服を崩さずに着てた人ってどのくらいいるんでしょうか。
服装検査があるたびに、わざわざそんなことをする意味がわからなかった人って結構いるんじゃないでしょうか。
まあいわばあれは学生らしさというものを求めてると考えられます。
でも学生らしさとはなんなのでしょう。
別の例えでいえばスーツを着た人に求められる社会人らしさとはなにか。
このらしさってよくよく考えてみるとすごい不思議な言葉じゃないでしょうか。
人間は一人一人が異なる存在です。
ですが歴史をみても、~らしさという言葉で人間をひとくくりにしてきた風習があります。
そしてここでいう属性とは学生、社会人、日本人、男性、女性などというような人の分類のことを言います。
この属性というものに対してどう感じるかはそれぞれ価値観があると思いますが、芸術家や哲学者はこの言葉にたいして深く分析して、作品へのメッセージとして込めることが多いです。
またネガティブにとらえられることも多い言葉でもあります。
どこか不自由を感じさせますからね。
ファッションでいうと男性がスカートを履くのは変だというような。
でも人は多種多様なのに、そんな属性だけで~するというのはおかしいという批判はやはり少し窮屈ですよね。
この属性・型をくずすというのはそれらに対抗した自由を求める行動を意味します。
男性だからといって女性の服を着てもいいんですよ実際は。
少し深く説明すると、人間は自分の所属する(あるいは与えられる)属性によって仮の行動をするといいます。
与えられた属性によっての行動の変化の例
私が立派な会社員だったとして、さらに管理職についていたとしましょう。
当然会社の評判を落とす行動はとりませんし、部下の前では頼りになる上司としてふるまうでしょう。
また帰宅すると夫、または父親という属性に所属します。
ここでは一家を引っ張る存在としてふるまうでしょう。
ですが友人といるときは弱音を吐いたり、それこそ下ネタを言ったりするかもしれません。
キャバクラでは変態おやじと思われている可能性もw
友人に弱音を吐いたり、キャバクラでセクハラをしたりしているのが素の状態だとすると、部下や家族の前での立派な姿は、演じている姿ということができます。
つまりあくまで哲学的には属性に所属している時の自分=仮の自分と捉えることが一般的です。
よくドラマなどである学校で優等生的なキャラが、裏ではクレイジーだったというのは学生という属性が、仮の自分を作っていたというとわかりやすいでしょうか。
ここでファッションに話を戻しましょう。
デザイナーにとって属性のための服(制服やスーツ、男性服や女性服等)というのは自分を演じるときに着る服なのです。(デザイナー全員がそうかんがえているわけではないですが)
そしてデザイナーは服のデザインによってその属性から解放を狙います。
着崩すという手法がよく用いられます。
例えば伝統的なスーツをロックテイストにして、ハードなブーツを合わせてみたり。
女性がメンズのような服を着てみたり。
でもよくよく考えると、今の時代は無意識にこのような価値観が浸透してきてる気がします。
ジェンダーレス男子なんて、従来世の中がある意味勝手に押し付けていた男性像から解放されたいという人たちに注目が集まってきたということですよね。
海外でも同性愛者を認める風潮が少しずつ高まっていってる風潮がありますし。
ファッションデザイナーのいう属性からの解放とは社会によって固定観念化された自分ではなく、本当の自分というものを探し求める運動と言えます。
常に当たり前の常識に疑問をもち、その疑問に自分の答えを服という形で答えるファッションデザイナーは芸術家といってもよいでしょう。
どうですか。
パリコレでの奇抜な衣装にはこのようなデザイナーの様々な思いが込められているのです。
服に対してこのような視点で観察ができたら、服選びがもっと楽しくなりますよ。
この記事が皆さんの参考になれば嬉しく思います。